与惣右ェ門堰
 与惣右ェ門堰は湯沢市稲庭町地内の皆瀬川左岸から取水し旧稲川町の皆瀬川左岸に広がる205haの水田をかんがいする用水路です。
 この堰の開削は今から300年あまり前の元禄4年(1691年)から麻生与惣右ェ門により行われたと伝えられております。この堰の延長は約6q、完成は11年の歳月を経て元禄15年(1702年)とされています。
 麻生与惣右ェ門は、慶長4年(1599年)常陸の国、行方郡麻生郷の住人である藤原政光という人が三梨町京政に居住し、周辺の開拓を進めた以降、藤原政光の子孫を代々「与惣右ェ門」と称している。
 この与惣右ェ門堰の計画は何代目かの与惣右ェ門が慶安3年(1650年)に先祖代々の遺業を継ぎ、地域開発を佐竹藩に注進したのが始まりとなっています。また、与惣右ェ門堰が完成するまでの間には、幾多の大きな試練がありました。
 一つは山すそを通る堰筋には大きな岩盤が露出し、とても人力では及ばなかったことや、堰の水平・傾斜を保つ技術が幼稚だったため大変難儀したことなどです。信仰心の深い与惣右ェ門は工事のあまりの難しさに堰の完成までに二回、高段稲荷明神へ百日の願をかけ用水堰と開田の成功を祈願し、神のお告げを聞いています。
 一回目は元禄2年(1689年)に「白狐の足跡を標し、用水を引き通すべし、然れば成就するであろう。岩石の上なりとも怪しむことなかれ」というお告げで、このお告げをもとに元禄4年(1691年)の春、堰筋の開削に着手し、元禄14年(1702年)に完成しています。しかしながら、この工事は取水口から1qのところの「蛇ヶ崎」において突然、水が逆流し失敗しています。人々の落胆は例えようもなく奈落の底と化してただ顔を見合わせるばかりで、その非難の矛先は与惣右ェ門の一身に集まり、「良民をたぶらかす似非者」として罵られ、人々の恨みや憤りを一身に負わなければならなかったと記されております。しかしこの時与惣右ェ門は毅然として、再び工事に立ち向かうことを決心しています。
 その思いとして自ら十字架を造り「我、事を企ててならず人々を苦しめ、お上を欺きたること重々罪にして、我において基より覚悟せし処なり。罪科如何に重くとも何の恨みとすべきか。さりながら事は私利私欲にあらず、願うところ住民の幸せなり、我は一度失敗したり、その罪軽からず、然れども官において大所より考慮くだされ特別の御慈悲をもって期限一ヶ年、尚水利を得ざるときは見られよ、この十字架に我寄りかかるべし」とし、工事の一年延長を領主、村人から取り付け工事を再開しています。
 2回目の神のお告げは元禄14年の冬でした。工事の再開には村人の助けを受けることが出来ず、ついに家財を投じて他より人夫を雇い入れ工事を進めました。与惣右ェ門はひたすら神霊の加護によるしかないと、再び高段稲荷明神へ百日の祈願をかけ、お告げにより難所中の難所である「蛇ヶ崎」の開削に挑んでいます。「蛇ヶ崎」の大岩の硬さはものすごく、日々数十人の石工が昼夜問わず働いても1日わずかしか掘り進むことが出来ず、全長20間(約36m)の堰を掘り終えたのは雪どけから開削が始まり初冬を迎えようとする10月で、許された期間も余すところ数日に迫ったころでした。
 そして再び水門の扉は打ち揚げられ皆瀬川から堰を流れる水は怒涛のごとくほとばしり「水が通った」との声に狂喜して叫ぶ者、小躍りする者、流れに先立って走る者など歓喜の声は晴れ渡った初冬の空高く響き渡ったそうで、この通水で村人たちは初めて与惣右ェ門の功績の偉大さに気づき、この堰を「与惣右ェ門堰」と命名し、その遺業を讃えたそうです。
岩城頭首工 高段稲荷神社
蛇ヶ崎の大岩