五ケ村堰の沿革
 湯沢市旧稲川地域最大のかんがい用水である五ケ村堰は内川、川連堰とも言われ、いつ頃出来たか明らかでないが、文明の頃(1469年〜87年)の平家奉加帳に小野寺甲斐守道成(稲庭城主)二百文、小野寺上野守道俊(川連城主)百文とあり、稲庭は川連よりも封禄が多く開拓が進んでいたようである。
 しかし、天正18年(1590年)10月17日大森城にある色部長真宛の「年貢収納之事」に稲庭一万苅、川連二万苅と川連が逆に稲庭の2倍になっている。これは川連堰開削工事が功を奏し、開田が進んだことを物語るもので、小野寺道俊が大永5年(1525年)に稲庭三熊野神社に掛仏を奉納したのは川連堰の竣工を記念したのもだと言われている。
 川連堰は水源を皆瀬川の上流に求め、河岸段丘沿いに稲庭村、鍛冶屋布より三梨村熊野堂、間明田を過ぎ下宿北端より根岸川連へ通じ、内沢川に合流する用水堰で古来より川連が堰親郷となって稲庭、三梨、川連、大舘、八面の五ヶ村で管理してきたのである。
 元禄2年(1689年)八面、三又の肝煎2年続きの不作のため両郷の者乞食になったと窮状を訴え出たと湯沢佐竹南家御日記にある。三又村の肝煎七右ェ門はこの窮状を救うため藩庁に五ケ村堰の延長を願出て、元禄8年(1695年)許可を得て堰の改修工事に着手し、五ケ村堰を三又村まで延長した。これは三梨村間明田より北に進み川連平城、八面村村尻を経て鼠舘において内沢川の古川を築留め三又村に入り字前田面、高村に分流する延長一里半、幅二間のかんがい用水路である。
 三又村も元禄9年の割丁場普請申合書に名を連ね人足割等の会合に参画していることから以後「六ヶ村堰」と称すべきであるが、以前慣行に従って五ケ村堰と呼んでいる。
 また、干ばつによる水不足のため、一番末水である三又村の被害がひどく、上流の村々に通し水を願出て、番をして水引をした。文政5年(1822年)さらに嘉永6年(1853年)の分水規定では次のように定められている。6月26日下村々肝煎、長役並びに堰守共が当村(三梨村)和兵ェへ出張し、湯沢鈴木宇内様御回在の上次の通り定めた。6月26日朝六つ時より同暮六つ時まで三梨村皆掛、同暮六つ時より27日明けまでは大舘、川連にて皆掛、同明六つ時より同暮六つ時まで八面、三又にて皆掛、同暮より明まで三梨皆掛、これを繰返すことに定めたが、この規定は文久3年(1863年)の通し水にも何ら変更されず適用されている。
 明治38年(1905年)稲庭町外三ヶ村水利土功組合を設立、三梨村長がこの管理に当り事務処理は三梨村と川連村が交互に担当してきた。
 昭和11年(1936年)稲庭町外三ヶ村普通水利組合が設立され、管理者に三梨村長が指定されている。
 昭和22年(1947年)大水害により皆瀬川堤塘の決壊、堰堤並びに水門が流失した。このように流失すること23年3回、24年4回、25年2回流失し、減収は免れない状況だった。ここ至り五ケ村堰の取入口並びに幹線用水路を整備し、用水不足の解消と水利費の節減のため県営かんがい排水事業として採択されるよう関係機関に実情を訴えた。昭和27年(1952年)県営小規模かんがい排水事業として採択着工され、昭和34年(1959年)に完成している。この後昭和43年(1967年)までに特別団体営事業並びに団体営かんがい排水事業で川連野村まで整備を完了した。
 昭和27年普通水利組合を組織変更し、稲庭町外2ヶ町村土地改良区を設立し、その後町村合併、町名変更により昭和43年(1968年)に稲川町土地改良区に名称を変更している。
 昭和47年(1972年)県営ほ場整備事業を実施するため稲川土地改良区が設立され、18年の歳月をかけ平成元年に完成しており、この事業で区画整理と共に五ケ村堰の末端まで整備された。昭和59年(1984年)には稲川地区土地改良区統合整備計画に基づき、稲川町、新処、与惣右ェ門堰、東福寺の4つの土地改良区に合併され、組織を強化拡充し、農業用水の管理を一元化するなどその適正化が図られ現在に至っている。


稲庭頭首工
川連漆器と稲庭五ケ村堰
 湯沢市川連町大舘集落の東側一帯を「浜町」と呼んでいたところがある。これは江戸時代から川連漆器用材の集積場としての名残りの場所である。川連漆器の木地になる木材は形木といって、主としてブナやトチ材で、湯沢市皆瀬方面の山林から切り出された木材を長さ3尺(約90cm)にして皆瀬川に流し、稲庭町岩城橋下流の「五ケ村堰」取入口から用水路に引き入れて、大舘集落の近くの「大舘浜」に水揚げした。同じような浜は久保集落にもあり、五ケ村堰の支流のその堰を「木流し堰」と今でも呼んでいる。皆瀬川を下し農業用水路を利用しての運搬は、一度に1000丁以上もの大量輸送であったことが江戸時代の記録に残っており、時には出水などで流失してしまうこともあったようであり、無事形木を水揚げした日には餅をついて盛大に祝ったそうである。「五ケ村堰」は農業用水路として重要であったばかりでなく川連漆器産業の発達にとっても欠くことのできない用材の運搬用水路として役目も担っており、木流し堰の歴史も忘れてはならない。

昭和初期の大舘浜のようす